明治の創業以来、初代兵助は天秤棒を無二の友とし風夜行商に辛苦を積む。誠実を躰とし、勤労を用となして家事に勤精。
明治26年には本郷郵便局長に任せられ以来十数年通信事務にも身を挺して就く。
しかし翌、明治27年局舎と共にしていた自宅が火災に見舞われ全てを焼失するも、その火急の場合にあって第一に公衆の郵便物其他の官物を避難させることに全力を注ぎ自らの家財は全て失う。翌日にはその報を知り我も一助たらんと近郷近在より大勢の人が集まり来て自己の事のように時を遷さずして作業に当たり、氏はこの人の情けを見て思わず歓喜の涙を流したというエピソードが残っている。
数年の後公衆のために家屋を築し再び通信事務を管する傍ら商業を営み専心公共の為に精勤奮闘する。
さらに氏の特筆すべき事業に妙見山(本郷公園)の一事がある。荊棘雑木の群生する人跡不到の地であるも本郷港の前途を達観すると共に信仰的自信を以てこの開墾に尽くす。資金を投ずると共に朝に夕に家業の余暇を利用し鋤鍬畚挿に身を注ぎ、ついには小浜線全通の暁に本郷港の勝地霊場とし紹介されるに至った。
困苦欠乏に堪えて精勤奮闘よく家を守り、己の名誉利達を欲せず常に専心公共のために力を尽くしてきた初代の精神は敬服の念と共に唯一無二の礎として今に伝えられる。
大正5年には酒造権利を受け日本酒醸造業を始める。「妙正宗」の商標で日本酒を製造し、地元の大飯町をはじめ隣の小浜市で販売を広げる。
しかしながら、昭和28年に第二次大戦中における企業の統廃合政策により当地での酒造業を諦め、新たに小浜市にできた酒造会社に参加をすることになる。
以降、当家では酒類販売業として商いを継続する。
昭和59年5月に法人化し有限会社村松酒店とする。
また平成18年10月に兵助株式会社となる。
物心がついた頃から既に自分の身の回りにはお酒があり違和感なく接していました。和酒洋酒を問わず様々なお酒が行き来する様子を見ながら、子供心に人々の生活の中に生活の一部としてお酒が在ることを感じていたように思い返します。
そんな中、少しづつ商いにも関わりいく中で、当家の歩んできたルーツを見聞するようになり「酒」に対する立ち位置を改めて意識し始めました。
そんな意識がより強くなったのは、自分自身が晴れてお酒を嗜み、様々な場面でお酒を交す機会に接するようになってからです。田舎ですので、地域の祭りや家の行事、寺社仏閣における祭事が数多く行われ、その都度お酒がお供えされまた振る舞われ、目にし口にするわけです。
ハレとケを問わず人々の日々の営みの中で節目ごとに用いられるお酒に対しての価値観が変化し、それを扱う意味を考えるようになりました。
お酒を扱うことは、人々の生活そのものに関わること、営みに寄り添っていくこと、単なる物販ではない意義を感じるように。勿論そこにはお酒がもつ致酔性という特性も大きく関わっています。
それらを踏まえ、扱う上でのプロ意識の必要性を大きく感じたわけです。
また日本酒が醸造される蔵で実際に酒造りの現場に入らせていただく機会を得た際、日本酒が生まれるまでの緻密で複雑な工程や昼夜を問わない繊細な醸造管理の一部始終から、日本酒の持つ凄みを体感しました。これだけ技術が進歩してもなお、自然に対する畏敬の念を忘れず、人間の五感を大切にする酒造りには、神秘性と蔵の想いが強く投影され醸し出されることに気付かされた瞬間でした。
生活の中で感じていった価値観の変化、現場で教わった酒造りの素晴らしさ、こうした一つ一つの新たな刺激が自分の方向性や想いを創ってきたといえます。
嬉しい時にも悲しい時にも厳かな時も賑やかな時もお酒は人々に寄り添うように飲用されます。お酒を口にすることで気持ちがほぐれ増幅します。人の気持ちを引き出す力がお酒にはあるのだと思うのです。その神秘の力が人間の営みの中で欠かせない役割を担っている証であると思います。
古来より絶えることなく今に続く、伝統としての酒文化の正当性を確かに踏まえ、自然の神秘で大きな恵みに造り手の情熱と真心を乗じたお酒を、味わいを損なうことがないようこれからも大切に飲み手の元へとお届けすることが最大の責務です。
さらに加えて、お酒を手渡した瞬間で終わりではなく、その先にある営みにおけるシーンにまで思いを巡らせ、人々の生活をいかに潤すことができるか、笑顔が生まれる一助になりえるか、元気になってもらえるか、そんな瞬間が一つでも多く生まれるためのサポートをしていくことも重要であると考えます。
そんな想いを常に持ちながら、幸せなシーンを思い描きながらこれからも多くの銘酒をご紹介していきたいと考えています。